今回お話を伺った方
有限会社クレッシェンド企画 代表取締役
ソプラノ歌手 下垣真希 さん
ソプラノ歌手として活躍されている下垣真希さんに、ご自身のキャリアライフと、女性だけでなく日本の全ての若者への想いについてお話を伺いました。
ー信念を持ってがんばっている姿は、誰かが絶対見てくれています。ー
●Career Story Of Her
ドイツで必死にがんばった日々は今の礎になっています。
愛知県立芸術大を卒業後、冷戦下のドイツに24歳で音楽を学ぶために渡りました。
しかし、留学生活が一年も終わる頃喉を壊し、話すことすらできなくなり、一旦日本に戻りました。
その話せない苦しい二ヶ月半の間に、どれだけ歌が自分にとって大切かに気づき、心から歌いたいと思いました。
人は失いかけた時に何が大切か気づくんだと思います。
そんな状態の私に、母は「もう大学生ではないのだから、支援はしません。ドイツに戻って歌を続けたいなら、自分の力でやりなさい。」と厳しく突き放したのです。
私は歌えるかどうかもわからない状態でしたが、歌いたいという一心でドイツに戻ることを決意しました。
その後は食べるためにアルバイトの日々で、大変な思いをしましたが、様々な方々に支えていただきました。
ご縁もあり、ドイチェ・ヴェレというラジオ局で日本語放送のディスクジョッキーも5年半させていただきながら、ケルン国立音楽大学での一般の勉強と、音楽の勉強を死に物狂いでしましたね。
そして、ドイツ国家声楽教授資格を取得し、大学卒業。
今から振り返ると、家庭からの支援を一切せず、自分で可能性の扉を開く力を付けてくれた母には、とても感謝しています。その充実した7年半は、自分できちんと稼いで生きたという手応えを感じています。
-キャリアのターニングポイントはいつですか?
1990年、まだバブルを引きずっている日本に帰ってきました。東西ドイツが統一した年です。
私はバブルの時代を日本で過ごしませんでしたから、浮かれている日本を海外から違和感を感じながら見ていました。
逆にその頃のドイツは、まだ東西に分断され、国民が皆政治のことを考えている時でした。私はその中でもまれましたから、自分の意見をきちんと主張すべきという習慣が身についたと感謝しています。
おかげで、その頃のどこかフワフワした日本にあって、思ったことを口にする私を煙たいと思う人もいたようですね(笑)。
日本での活動は、クラシックの楽しさを広めるために、海外のアーティストと中部地方の音楽家を組み合わせたコンサートを企画をしたり、海外のアーティストの通訳をしたりなどを経て、20年前、歌の道を与えてくれた父の死をきっかけに自分の歌一本でやっていこうと決意しました。
そして、2000年ドイツ・ハノーバー万博閉幕式でアジア代表として独唱する機会に恵まれます。
このことをきっかけに、仕事の依頼がグンと増えました。
しかし私にとって大きかったのは、この万博で日本の歌を歌うことになり、改めて日本の四季を言葉にこめた歌の素晴らしさを実感したことです。
これが唱歌など、日本の歌を中心にしたコンサート活動につながっています。
-周りの人の協力は?
ドイツでピアノやドイツ語の家庭教師をしながら、なんとか音楽の勉強を続けることができたのは、現地で出会った人のおかげです。
そして、日本で私のコンサートに何年も通ってくださっている方々、支えてくださる方、ご紹介からつなげていただく仕事も多く、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
信念を持ってがんばっていれば、どこかで見ている人は必ずいます。誰と出会うかで人生は変わるなと実感していますね。
私が今、生涯を掛けて続けていこうと思っているのが、「平和のリサイタル」です。
音楽家が一生涯の間に歌いたい歌に出会うのは難しいと言われていて、「あなたは幸運よね。歌いたいものに出会って」と言っていただけるのは、私が日本の歌という私が歌うべきだと思えるものに出会ったからです。
中でも「長崎の鐘」の原作者、永井隆博士の歌に出会ったのも運命的です。
愛する妻を原爆で亡くし、自分も幼い二人の子供を残して死にゆく運命の中で、人を許し、平和な世界をと訴え続けた祈りの長崎の象徴。
その先生の家に、私の叔父が医学生として下宿していたご縁で、先生が亡くなる前に病床で認めた「平和を」という書を見て大きくなりました。
叔父は被爆しながら奇跡的に長崎から島根まで戻ったのですが、その叔父を看取った叔母が、「長崎の鐘」を収録した私のCDを手にして初めて語ってくれた、17歳の叔父の壮絶な最期。戦後45年以上たって語られた叔父の苦しみと無念を聞いた時の衝撃は忘れません。
平和と豊かさを当たり前のように享受してきた生き方を変えなくてはと突き動かされました。
そうしたご縁もあり、永井先生の平和への祈りに満ちた「長崎の鐘」を歌いつがなくてはと思っています。
先の8月5日には名古屋にて「下垣真希 平和のリサイタル2017」を行わせていただきました。
それらは全て周りの方々が紡いでくれた縁のおかげなのです。
個を大切にし、自分の意見を言えることが、これからを生き抜くのに必要です。
-日本の若者がリーダーになるには?
若い頃に苦労をすべきです。その頃の苦労は身につきますから。
もっと言いますと、親は、子どもに手を差し伸べすぎて、将来の可能性をつぶしてしまわないようにしないといけません。
ドイツの家庭では、例えば物を取って欲しい時に、「○○をください。お願いします」、取ってくれたら「ありがとうございます」と、3歳の子どもが言うまで徹底的にしつけをします。「私たちは、この子をきちんと人間にして世の中に送り出す義務がある」と大人たちが皆例外なく言うのです。
それは日本の子供たちにも必要なことだと思います。
私は日本に戻ってきてから、大同工業大学、そして今は名城大学、同大学院にてドイツ語を教える機会に恵まれています。
そこで、学生に接する時に「私たちは人間に産まれたんじゃないよ。人間になるために産まれたんだよ」と伝えるようにしています。
同じ敗戦国でも、戦後全く違った歩みをしたドイツと日本。
私が住んでいた頃の東西に分断されていたドイツは、統一するまでまだ戦争が終わっていないという感覚を皆が感じていました。なぜ戦争になったのか、皆が考えていたし、議論しながら戦争を降り返っていました。
反対に日本は振り返りが足りないまま走ってきてしまった。
戦争は二度としてはいけません。ですから、なぜそういう状況になってしまったのか振り返り、考えることは大切なんです。ドイツと日本、両方経験した私だからこそ、大切なことを伝えるのが自分の使命だと思って、ドイツ語を教えながら学生に接しています。
日本人は、意見が違う人と議論ができない。違う人を排除しようとして、なるべく角が立たないように曖昧にやり過ごすことを良しとしてきてしまいました。
これから厳しい時代に入るであろう日本を乗り越えるにはこのままでは厳しい。自ら考える力が必要になると思っています。
ドイツ語は、自分の思っていることを表明した後、なぜならと理由を説明する言葉です。つまり、ドイツ語を学ぶためにも、まずは自国語できちんと語れる人にならなくてはいけないのです。
ですから、学生たちには、自分が何が正しいと思うかを自ら判断し、意見が言えるようになってほしいと思い、命の大切さを考え、自分は何をすべきかを考えさせるような授業を行っています。
12年前にアメリカンファミリー生命保険(AFLAC)日本支社設立者である大竹美喜氏が、これからの日本を担える高校生を育てるためには学校教育だけでは足りないということで始めた「きらめき未来塾(認定NPO法人)詳細はこちらから」に誘われて、講師として携わり、三年前から塾長をさせていただいています。
全国から選抜された数十人の高校生と毎年数日間合宿をして、学校では普段接することのない様々な分野のエキスパートに授業をしてもらったり、グループディスカッションなどを重ね、生き方、自分の考えや可能性に真剣に向き合う塾を開催しています。(今年は80人が参加して仙台市にて8/6~8/9開催 テーマ「いのち・生きる~そして君はどうする」 詳細はこちらから)
今回は東日本大震災の被災地・仙台で開催することもあって、いのちについて考えてもらうプログラムになっています。
一つの価値観、数値を追うような学歴社会、良い大学に入って良い企業に入って過ごすという一本道しかないという価値観を日本社会は良いとしてきましたが、これからの厳しいグローバル時代を乗り越えていく若者は、それでは対応できません。
個を大切にし、多様な意見を取り入れながら、自分にはこれだと思う道を自信を持って進んでいってほしいです。
私ができることがある限り、人を育てるということには、この先ずっと関わっていきたいと思っています。
■企業情報
名称/有限会社クレッシェンド企画
設立/平成3年7月
所在地/名古屋市千種区新池町2-8エスポア東山B718
代表者/下垣 真希
ご連絡先:info@maki-opera.com