vol.5【社会を動かした女性たち(1):エメリン・パンクハースト】
今回は前回ご紹介した映画『未来を花束にして』の中でメリル・ストリープが演じた実在の人物、エメリン・パンクハースト(1858-1928)を取り上げ、一人の女性の人生を追いながら、婦人参政権運動の展開を概観してみましょう。
過激な運動を起こし、女性の参政権を訴え続けたサフラジェットのリーダー、エメリン・パンクハースト。彼女は一体どのような人生を送ったのでしょうか? エメリンが生まれたのはイングランドの工業都市、マンチェスター。急進的な自由主義思想が育まれた地で、婦人参政権を求める運動は、彼女の幼少期からすでに始まっていました。 父親と母親が共に男女平等参政権の熱心な支持者という家庭でしたが、二人はエメリンよりも息子たちの教育に力を入れます。当時は、女性にとっては限られた教育や政治参加の機会しか与えられなかった時代。「女性」であるという理由で兄弟と差別される現状に、エメリンは疑問を感じていたことでしょう。 そんな両親への反抗心からか、エメリンがサフラジェットの活動に初めて参加したのは、なんと弱冠14歳のとき! その後パリ留学を経て、帰国後に結婚。20歳以上年の離れた夫は、弁護士でありながら婦人参政権運動を支持し、女性参政権法案や1870年に成立した既婚女性財産法の起草者でもありました。夫婦で共通の思想を持つことは、エメリンにとって強力な心の支えとなったに違いありません。 エメリンはマンチェスターで活動を続けながら、1903年には映画にも登場したWSPU(女性社会政治同盟)を設立。その3年後にはロンドンへ進出、彼女の娘クリスタベルとシルヴィアも積極的に活動へ参加するようになります。
“Votes for Women(女性に参政権を)” “Deeds, not words(言葉ではなく、行動だ)”
エメリンはたびたび公の場に姿を現してはスピーチを行い、短く心に響くスローガンを使って女性たちの士気を高めます。1908年にハイド・パークで行われたデモには数十万人が参列し、歴史に残る出来事となりました。 設立当初、穏健な活動を続けていたWSPUでしたが、「立法の過程に参加できない女性たちには、法を犯す行為も認められるべきだ」という理論を基に、次第に暴力行為をエスカレートさせます。 活動に携わった女性たちはもちろんのこと、エメリン自身も刑務所への収監、そして釈放を10回以上繰り返しました。 1914年に第一次世界大戦が開戦すると、エメリンはWSPUの活動を停止し、戦争に協力する姿勢を徹底させます。 その後、1918年には30歳以上の女性に参政権が与えられ、1928年にエメリンが亡くなった数週間後、イギリスでようやく男女平等の普通選挙法が成立しました。
婦人参政権が実現したのは、戦時中女性たちが後方支援で活躍した見返りだとする見方もありますが、エメリンたちの熱意に溢れた行動がなければ、その時期は先延ばしになっていたかもしれません。 彼女の勇気と行動力には、性別に関わらず、当時の社会制度に違和感を抱いていた大勢の人々の心を動かしました。 その後、イギリス人女性たちの行動がイギリス国内に限らず、欧米諸国や遠く離れた日本で活動を続ける女性たちを鼓舞したことは、疑いのない事実なのです。
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