vol.7【社会を動かした女性たち(3):市川房枝】
20世紀に入り、海外諸国が次々と婦人参政権を認めていく中、日本にもその動きに触発され、婦人参政権運動を展開した女性たちがいました。その中の一人、市川房枝はイギリスの婦人参政権運動主導者・エメリン・パンクハーストの人形を家に飾るほど、海外の動向に精通していました。彼女は停滞していた日本の婦人参政権運動を先導するだけではなく、その生涯をかけて女性の権利と処遇の是正を訴え続けていきます。 1893年、愛知県の農家に生まれた房枝は、幼いころから教育熱心な父親のもと、学校に通って学問を修めました。女子師範学校在学中には、校長の良妻賢母主義に反対するストライキを起こすなど、すでに女性活動家としての片鱗を示します。教員や新聞記者の職を経験し、1919年には『青鞜』を創刊した平塚らいてうと共に日本初の婦人団体「新婦人協会」を結成。1921年にはアメリカへ渡り、ニューヨークやシカゴで仕事をしながら、米国女性の労働状況を間近で観察する機会を得ました。 参政権を獲得した直後の女性たちと触れ合った経験は、房枝にとってその後の活動を支える大きなモチベーションになったことでしょう。1924年には婦人参政権獲得期成同盟を結成し、本格的に婦人参政権運動を開始。1945年に婦人参政権が成立した後も精力的に活動を続け、初当選して参議院議員になったのは、彼女が60歳の時。売春防止法の制定や、政界の浄化に尽力し、亡くなる数ヶ月前には、日本政府に国連の女子差別撤廃条約の署名式に参加するよう要請して実現にこぎつけます。 彼女の遺志は次世代へと受け継がれ、男女雇用機会均等法の成立や家庭科の男女共修などへつながっていきました。暴力に訴えることはなかったとはいえ、房枝は自ら行動することで手本を示し、多くの女性を鼓舞した点で、パンクハースト夫人に勝るとも劣らない行動力を持ち合わせていたと言えるでしょう。 昨年は、日本で初の女性議員が誕生した衆議院選挙から70周年となる節目の年でした。女性の立候補が許された初めての選挙では、39人の女性議員が当選します。全議席における女性の割合はわずか8.4%でしたが、世紀が変わった現在でもその数字に大きな変化がみられないのは一体なぜなのでしょうか。不均衡な男女比率も問題ですが、政治不信につながるような昨今のニュースをみていると、女性議員の熱意と倫理観がこれまで以上に求められていくように思えてなりません。房枝のように信念を持って積極的に行動し、社会を動かそうとする女性の力が、今後もわたしたちの社会に必要となるのではないでしょうか。 【参考資料】
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